昔読んだ本や観た映像を、大人になってふと思い出すことがある。
あのシーンはああいうことだったのか。
あれは、子どもの視点と大人の視点で見方の変わる描かれかたをしていたのか。
ふと思い出したときに、その巧みな技術に驚かされてはっとする。
巧妙なオブラートで包まれた表現は、子どもの頃には知識が無いから理解ができない。
だが、大人になった頃に読み返すと、子どもの頃には無かった知識が備わっていて、その意味を理解することができるようになる。
昔読んだ作品を大人になって読み返すと、また違った面白さを味わえる理由はここにあるのだろう。
だから、子どもの頃からなんでも観・読んでおくことは良いことだ。
それが、たとえ血生臭い作品でも。
大人の思考では懸念するような作品も、子どもに見せたっていい。
それは、大人の思考が、大人の余計な判断が邪魔をしているだけだ。
ただ、それでも、私が読ませてもらっていたもの、観せてもらっていたものは、年齢制限のかかっていない作品ばかりだった。
最近は、年齢制限がより厳格になっている気がする。
私より年上の大人が、きっと、自分の子どもに見せたことで失敗したと思ったものを規制したいと思っているのだろう。
今、公の場で規制されていて、子どもたちが見ることのできない作品は、親の判断で見せたっていい。
その責任を背負えるならば。
書きたいことが逸れたので、話を少し戻す。
子どもの頃に知識のなかったものでも、大人になって知識を蓄えた結果、その知識が結びついて身につくことは大いにある。
判らなくても良い、目を通すだけでもいい。
少々、専門的すぎた本を読んだなら、それより少し簡単な本を手に取って眺めるだけでもいい。
そうしているうちに、目に留まるワードがおのずと浮き上がってくる。
浮き上がってきたら、眺めて読み飛ばしていた読書スピードが知らずのうちに落ち着いて、そのワードについて書かれた文章をじっくり読むようになる。
そのうちに、浮き上がってくるワードが増えてくる。理解が叶う。判るようになる。
そうしたら、もう一度、先に読んでしまった専門的すぎた本にもう一度目を通してみる。
目を通すだけでいい。
目を通していくうちに、少し簡単な本で体験したように、目に留まるワードが自ずと浮き上がってくるはずだ。
そうしたら、そのワードについて書かれた文章をじっくり読めるようになっている。
そうして、読む本の難しさを段々と上げていけばいい。
子どもの頃に読めなかった本も、そうしていつか読めるようになる。
今読んでいる本を、いつか読破したいと思うのなら。
一読進んで二読下がったって良い。
さぁ、本をもっと読もう。
以前は読めなかった本を読めるようになるのは面白い。
写真は、今日散策中に撮影したランタナ(冒頭)とデュランタ(末尾)
また、街中鉢植え撮影でもしに行こうか。